【感動実話】アフリカの野生動物に育てられた女の子の眼差しと笑顔にグッと来る

自然写真家の両親を持つ女の子、ティッピ。

ティッピの両親は、
彼女がまだ生まれる前に故郷のフランスから
アフリカのナミビアに引っ越しました。

ナミビアにはライオンやトラ、チーターなどの
どう猛な動物たちが生息していますが、
両親はそこでティッピを野生の動物たちとともに育てることにしたのです。

 
(スポンサードリンク)

写真家の両親がこれまでに撮影してきたティッピの
写真からは、学校や社会のしがらみに捕われることなく、
たくましく成長していくティッピの様子が伝わってきます。

2

3

4

5

6

7

8


(スポンサードリンク)


9

10

11

12

13

14

15

16

参照:Elite Daily
(スポンサードリンク)

【全米が泣いた感動実話】ホームレス少女がハーバード大学へ


ホームレスだった少女がハーバード大学に入学した話を知っていますか?

アメリカ最貧の街と呼ばれる「サウスブロンクス」という地で生まれたリズ。

生まれつき家庭も貧しく、父親は無職で母親は薬物中毒という両親。

主な食事は水に溶かしただけのシリアルと満足な物は食べられませんでした。
(スポンサードリンク)

父は無職でしたが口癖のように「リズ、本を読め。学校には行けよ。」と言っていました。

そのため外のゴミくずをあさり、ボロボロになった本を読むのがリズにとっての楽しみでもありました。

ところが…さらなる不幸がリズに。

 

9歳のリズに訪れた不幸とは

当時なんとか生きながらえていたリズに、さらなる不幸が訪れました。

母は薬物中毒のため入院させられ、家庭では家賃が払えなくなりアパートを追い出されてしまうのです。

9歳だったリズは、その頃からホームレス生活をスタートすることに。

生きるために万引きもし、「お金ください」と物乞いもしました。

その後、リズの運命を大きく変える出来事が起きました。

母が死んだのです。

16歳のタイミングでホームレスとなった母と同じ年齢になったリズも同じような運命をたどるのかと

厳しい現実をつきつけられていました。

そんな時、ふとリズの頭をよぎったのが

「学校には行けよ。」という父の言葉でした。

 

人生を変える一歩を踏み出す

リズは、高校を卒業すれば何かが変わる。人生を変えたい。

そんな一心で入学金の要らない高校に入学を決心しました。

とはいえ、昨日までホームレスだった少女が授業についていけるはずなどなく、毎日勉強に打ち込むのでした。

日中は授業を受け、放課後は学費を稼ぐためにアルバイト、アルバイトが終わった後は授業に追いつくために深夜まで勉強。

そんな努力の甲斐あってか翌年には学年トップの成績に。

そして、成績優秀者のみが参加できるハーバード大学の見学にリズも参加したのです。

そこで見た光景は今まで見たこともない輝きを感じ、ハーバード大学への強い思いを持つのです。

 

ハーバード大学に行きたい

貧しいリズにとって、ハーバード大学に入るには奨学金を得るしか方法はありませんでした。

運良くニューヨークタイムズがその年から奨学金制度を始め、リズも面接をすることに。

面接は、「人生で克服しなければならない事」というテーマでスピーチするものでした。

そこでリズは、ホームレスであることなど自分の生い立ちを赤裸々に話したのです。

リズにとっての克服しなければならない事は、これまでの人生であることを本心から訴え、人生を変えたいと魂の叫びを伝えました。

そして….

奨学生発表の場にリズの姿がありました。

そうです。ハーバードへの切符をリズは掴んだのです。

そして、リズは壇上で「ハーバードに行きます。」そう強く決意表明しました。
(スポンサードリンク)

 

ハーバード入学後
リズは、入学後臨床心理学を専攻し、大学でも勉強に励みました。

そして卒業後は、自分と同じ境遇の人たちを助けようとホームレスが通える高校を設立したのです。

ホームレスという言葉では言い表せられない程の辛い人生を送ったからこそ伝えたい言葉があると言います。

人生は環境では決まらない。どんな人間になりたいか、その意思が未来を決めるのです。

いかがだったでしょうか。

このリズの大逆転劇は「Breaking Night」というタイトルで著書にもなっています。

過酷な日々でも決して自分の人生を諦めなかった感動のストーリーです。
(スポンサードリンク)

「お母さん、なんであの人は手ないん?」

突然だけど、母親のこと子供にどう話してる?

俺の娘は今年4歳になるが、嫁は娘を生んですぐに
家を飛び出したので、子供には母親の記憶はない。

(スポンサードリンク)


今まで母親のことはあまり話題にせず避けてきたんだが、
こないだちょっと考えさせられる出来事があった。

仕事の移動中に乗った電車の中でのこと。

俺の隣には、幼稚園くらいの女の子が、
母親らしい若い女性と一緒に乗っていた。

途中、駅で片腕のない女性が乗ってきて、
俺達の向かい側に座った。

女の子が「お母さん、なんであの人は手ないん?」と、
みんなに聞こえる声で言ったので、
俺は一瞬ドキっとして、女性と親子から思わず目をそらした。

が、母親らしき女性は慌てることなく、女の子に向かって言った。

(スポンサードリンク)


母親「いろんな人がいるの。みんなが同じじゃないの。
○○ちゃんにはおじいちゃんとおばあちゃんがいないでしょう?」

女の子「うん、みんなはおるけど私はおじいちゃんとかおらへんねんなー」

母親「うん、いろんな人がおるけど、おじいちゃんやおばあちゃんがいないのは、
○○ちゃんのせいじゃないでしょ?」

女の子「うん、違う。あ、△△ちゃんとこはお父さんおらへんねんで」

母親「そうね、でも、それは△△ちゃんのせいじゃないよね」

女の子「うん、違う!」

母親「だからね、みんなおんなじじゃないの。みんなそれぞれ、持ってるものと、
持ってないものがあるんよ。でもね、持ってないからって、その人は何も悪くないし、
他の人と何も違わないんよ」

腕のない女性を含めて、車内に乗り合わせていた人たちは
みんな暖かい目でその親子を見守っていた。

思わず目をそらしてしまった自分が恥ずかしくなった。
自分の娘にも、母親のことを恥じない子に
育って欲しいと思った。

この電車の親子は、俺に子育ての
大事なことを教えてくれた気がする。
(スポンサードリンク)

【感動実話】5歳で婚約をし、13歳で女性器切除されながらも、マサイ族の過酷な運命に立ち向かい、夢を叶えた女性

命の危険を伴う女性器の切除、まだ10歳にも満たない女の子の強制的な婚約。女性に教育を受ける権利が認められていないマサイ族では、ほかのアフリカ地域と同様、いまも古い慣習や制度によって、多くの女性が虐げられている現実があります。そんな中、同族の出身であるKakenya Ntaiya(カケンヤ・ンタイヤ) 氏は、故郷に女子校をつくるために立ち上がり、数々の苦難と戦い続けました。その末に彼女が手にした未来とは?
(スポンサードリンク)

 

彼らは背が高く、とても高くジャンプします。赤い衣装を身にまとい、ライオンを殺します。さて、何という民族かわかりますか? それは、マサイ族です。何がすごいって? 実は、私もマサイなんです。(会場笑)マサイ族の社会では、男の子は戦士になるよう育てられ、女の子は母親になるように育てられます。私が5歳の頃、私には既に婚約者がいて、思春期に入ったらすぐに結婚をすることが決まっていることを知りました。母も祖母もおばたちも、よく私にこう言いました。「今しがた将来の旦那さんが通りかかったわよ!」(会場笑)すごいでしょう? それ以来、私が行ったことは、12歳までに完璧な女性になるために準備をすることだけでした。

私の1日は朝5時に始まり、牛の乳搾り、家の掃除、兄弟の食事の支度、水汲み、薪を集めることが日課でした。私は完璧な妻に求められることを全てこなしていました。私は学校へも通っていました。でも、それはマサイ族の女の子がみな通っていたからではありません。私の母は教育を受けることを許されませんでした。ですから母はいつも私達兄弟に「自分と同じような人生を歩んでほしくない」と言っていました。

マサイ族の伝統的な儀式

なぜ母はそんなことを言ったのでしょうか? 私の父は都市で警察官をしていました。年に一度家に帰ってきますが、時には 2年も帰らないことがありました。父が家に帰る度に私たちの生活は一変しました。母は畑で一生懸命働いて、私達の食べる穀物を育てていました。牛や羊を育て、私達を養ってくれていました。
(スポンサードリンク)


しかし、父が家へ帰ってくると家畜や食糧を売って、友達と酒場へ飲みに出かけてしまうのです。女性である母には財産を所有する権利は一切なく、したがって私達の家にあるものはすべて父が所有権を握っていました。もし母が父に反抗すれば、殴られ、虐待されてしまいました。私が学校に通っていた頃、私には夢がありました。学校の先生になりたかったのです。先生は素敵ですね。きれいな服を着て、ハイヒールを履いていました。後になって、ハイヒールは履き心地が悪いと気づきました。(会場笑)特に、先生の仕事は黒板に何か書くだけで、とても楽そうだと思ったのです。私が畑でしている重労働に比べたら楽そうです。それで私は先生になりたかったのです。学校で私は一生懸命勉強をしました。そして、中学生の時、私はある決断を迫られました。

マサイ族には伝統的な儀式があり、女の子は思春期を迎える頃に皆その儀式に参加することになっていました。それは、大人の女性になるための儀式です。私にとって、中学校を卒業し高校へ進学する過渡期でした。人生の分岐点です。この伝統儀礼を受ければ、私は妻となります。そして、私の先生になるという夢は叶いません。

決死の覚悟で行った父親との交渉

そこで、私は この問題を解決するために作戦を練らなければなりませんでした。私は父に他の女の子なら絶対にしないような交渉をしました。私は父に、 「儀式には参加しますが、その後、また学校に通わせてください」とお願いしました。もし私が儀式から逃げ出したら父は大恥をかき、人々に 「儀式から逃げた娘の父親」として後ろ指を指されます。父は汚名を背負って生きていくのは耐えられません。ですから、「わかった、儀式に参加したら学校にまた通ってもいい」と言ってくれました。私はその儀式に参加しました。1週間にわたる盛大なお祭りです。村の人々は大いに楽しんでいました。そして、実際に儀式が行われる前日に、私達は踊り、楽しみ、寝ずに夜を明かしました。儀式の当日、私達は踊っていた家を出て、踊りながら歩いて行きました。広場に到着すると、大勢の人たちが輪になって待っていました。私達は踊りながらその輪に近づいて行きました。女性も男性も子供も、村中の人が輪になっていました。輪の中心には女性がいて、座って私達を待っていました。私の姉妹や他の女の子もいました。まず私が1番手でした。

 

その女性に近寄った時、彼女が私を見据えたので、その場に座りました。そして、脚を広げました。脚を広げると、別の女性がやって来ました。ナイフを持っていました。ナイフを持って、私の方に歩み寄り、私のクリトリスをつまむとそれを切り落としたのです。ご想像通り、私は大量の血を流しました。出血が続いた後、私は意識を失いました。しかし、私は幸運でした。多くの女の子はこれにより命を失いますが、私は死にませんでした。麻酔もなく 、ナイフは錆びていたので、とてもつらい経験でした。でも私は幸運でした。多くの母親がしないことを私の母がしてくれたからです。儀式の3日後、家から人が去った後、母は看護婦を呼びに行ってくれたのです。私達姉妹は手当を受け、3週間後に私は回復し、高校へ進学することが出来ました。私の「先生になる」という決意は固まっていました。 家族に変化をもたらすためです。

人生の転機となったとある男性との出会い

高校生のときに、あることが起こりました。同じ村の出身の若い男性と出会ったのです。

彼はオレゴン大学へ留学していました。白いシャツとジーンズという格好で、カメラを持ち、スニーカーを履いていました。真白のスニーカーです。外見に魅了されてしまうことってありませんか? 靴はスニーカーを履いていたんですよ(笑)! 舗装された道路もない村で、そのスニーカーはとても魅力的でした。(会場笑)私は彼に率直に言いました。「あなたのいるところに行ってみたいわ」と。彼はとても幸せそうに見え、うらやましかったのです。彼は聞きました。「行きたいってどういうこと? きみを待っている旦那さんがここにはいるんじゃないの?」 私は、「そのことはご心配なく。行き方を教えてくれるだけでいいの」と言いました。(会場笑)この男性が私を助けてくれました。また、高校在学中に父が病気になりました。とても重症の脳卒中だったので、父は私の進路について何も指示することができませんでした。しかし、 私の父は1人ではないのです。私の村にいる父と同年代の男性は、みな私の父替わりなのです。おじさんみたいな存在ですね。彼らも私の将来について指示をします。そんなとき、ある通知がきました。私が志願していたアメリカのバージニア州、ランドルフ・マコン女子大学からの合格通知です。しかし、村の助けがなければ大学へ行くことはできません。航空券を買うお金が必要だったからです。奨学金はもらえましたが、渡米する資金が必要でした。それで、村の助けが必要でした。しかし、村の男性は 「女の子が大学へ進学するチャンスを与えられた」なんて聞くと、「何てもったいない! こういう機会は男の子に与えられるべきだ! 支援なんてできない」と言います。そこで、私はまた村の伝統を利用しました。

長老への嘆願

村人たちは「良い知らせは朝にやってくる」と信じています。ですから、この問題を解決するには朝でなければなりませんでした。良い知らせは朝にやってくるからです。村にはみんなのリーダー的存在ともいえる長老がいました。その彼が賛成すれば、皆がそれに従います。そこで私はある日の早朝、日が昇るとすぐに彼を訪ねました。彼がドアを開けると、そこには私が立っていました。「おやおや、こんな朝早くにここで何をしているんだね?」と彼は私に尋ねました。「あなたの助けが必要なんです。私がアメリカに行く支援をしてくれませんか?」と、私は頼みました。私は彼に必ず将来村に帰ってきて、村の人々が望むことを何でもすると約束しました。彼は、「自分1人で決められる問題ではない」と言いました。そして私に村の16人の男性の名前のリストをくれました。毎朝、私は彼らに会いに行きました。最終的に彼らはみな協力してくれました。村の女性も子供もみな協力して、私が教育を受けるための支援をしてくれました。晴れて私はアメリカに来ることができました。そこで私が見たものは何だと思いますか? まず、雪を見ました!

(会場笑)そして、ウォールマートや電気掃除機を見ました。学校のカフェテリアに並ぶ豊富な食べものにも驚きました。私は物が豊富にある国にきたのです。私はアメリカの生活を思い切り楽しんでいました。

アフリカに女子校をつくりたいという想い

しかし、私は同時に多くのことを学びました。私が13歳のときに経験した儀式は、「女性器切除(FGM)」と呼ばれるもので、ケニアの法律に反するものだと知りました。教育を受けるために自分の体の一部を引き換えにする必要などなかったことも知ったのです。本来、私には教育を受ける権利があったのです。今現在も、アフリカでは300万人もの女の子が 女性器切除を受ける危険にさらされています。また、私の母には財産の所有権があったのだと学びました。女性だからという理由で、父に虐待される必要はなかったのです。これらのことを学んだ私は憤慨しました。何か行動を起こしたいと思いました。故郷へ帰るたびに、近所の女の子が結婚をしていくのを目にします。私が受けた儀式を彼女たちも受けています。

私は大学卒業後、国連で働き、その後大学院へ入りました。しかし、彼女たちの泣き顔が常に脳裏に焼きついていました。何かをしなければと思いました。故郷へ戻った私は村の男性や母親たちと話し合いました。そして、私は「いつか戻ってきて村の人たちが望むことを何でもするという約束を今果たします。何をお望みですか?」と聞きました。

母親たちからは、「女の子が通える女子校が必要です」と言われました。村には女の子だけが通える学校がなかったからです。さらに、女の子が学校へ通う間にレイプに遭うと、責められるのはその子の母親でした。女の子が結婚前に妊娠すると、母親が責められ罰を受けるのです。母親が叩かれます。彼女たちは 「娘たちに安全な場所にいて欲しいの」と言いました。しかし、村の父親たちと話をすると、もちろん全く反対のことを言います。「男の子のための男子校が必要だ」と。私は、「村の男性の中には海外で教育を受けてる人もいます。彼らが男の子のための男子校を建てて、私が女の子のための女子校を建てるというのはどうでしょうか?」と提案しました。彼らは納得してくれました。私は、「あなたたちの意欲を証明してほしい」と言いました。すると彼らは、女子校を建てるための土地を提供してくれました。そこに晴れて学校を建てることができたのです。

教育で人生が変わった女の子

この学校に通う女の子たちを紹介させてください。

アンジェリーンはこの学校への入学を希望して来ましたが、入学の基準を満たしていませんでした。彼女は孤児だったのです。それだけなら彼女を受け入れることができたかもしれません。しかし、年齢が他の子より上だったのです。アンジェリーンはすでに12歳で、私達は4年生の女子を受け入れることにしていたのです。彼女は孤児だったため、いつも住処を転々としていました。母親も父親もいませんから、祖母たちやおばたちの家を転々とし、彼女の人生に安定した時期はありませんでした。私は、今でも彼女を初めて目にした時のことを覚えています。アンジェリーンには彼女の外見からは想像できない何かを感じました。彼女は4年生としては年齢が上でしたが、教育を受けさせる機会を与えることにし、入学を許可しました。

 

そして、これが5ヶ月後のアンジェリーンです。彼女の人生が大きく変わり始めました。彼女は将来パイロットになりたいそうです。世界中を飛び回り、変革を起こすためです。入学した当時の成績は良くはありませんでした。しかし、今では彼女の成績は1番です。私達の学校だけでなく地区全体で1番成績が良いのです。

小さな行動がコミュニティに変化をもたらす

この子はシャロンです。

そして5ヶ月後の彼女です。

彼女はエヴェリンです。

これが5ヶ月後です。このように私達は変化を起こしています。私達の学校で新しい夜明けが起こっているように、大きな変化が起こりはじめています。

この瞬間、 125人の女の子は女性器切除を受けずにすみ、12歳になったときに結婚をせず、自分たちの夢を実現することができるのです。

これが私達の取り組んでいることです。彼女たちが成長する機会を提供しているのです。女性たちは虐待されることもありません。私達が自分たちのコミュニティに変革をもたらしたためです。(会場拍手)今日は私からみなさんにお願いがあります。今みなさんが私の話を聞いてくださっているのは、みなさんが前向きで、情熱があり、より良い世界を望み、戦争を終わらせ、貧困を無くしたいと考えているからだと思います。みなさんは社会に変革をもたらしたいと思っているはずです。人類の明日をより良いものにしたいと考えているからでしょう。私がみなさんにお願いしたいことは、まず最初に自らが行動を起こすことです。そうすれば周りはついてきます。まず、行動してください。すると誰かがついてきます。自信を持って、くじけず、恐れず行動するのです! 世界を変え、コミュニティに変化をもたらすのです!

私達は信じています。一度にひとつずつ、ひとりの女の子に、ひとつの家族に、ひとつの村に、ひとつの国に影響を与えていると。私達も変化を起こしています。あなたが、あなたの社会を変えれば コミュニティが変化していきます。そして、いずれは国に変革をもたらすのです。考えてみてください。もしあなたが行動し、私も行動すれば、私達の子供やあなたたちの子供、 そしてみんなの孫たちのために、より良い将来を提供してあげられるのではないでしょうか? そうなれば、すばらしく平和な世界で暮らせることになるのです!どうもありがとうございました。
(スポンサードリンク)

ゴミ箱で衰弱するネコを助けた少女。その後の展開がおとぎ話のよう。

イスタンブールの入り込む路地で迷い、
酷い光景を目の当たりにする。

他の人々は何も見ず、

何も語らずに通り過ぎていく。

この心の優しい少女を除いては・・・。

(スポンサードリンク)



この惨めさの塊のような生きものは、イスタンブールのゴミ箱の中に横たわり、

昼夜弱々しく泣いていました。

毎日地元の住人はこの子猫の横を歩いていたが気付きませんでした。

イスタンブールの人口は14oo万人。

悲しいことに一人として気にかけなかったのです。

7歳の小さな女の子だけが、

ごみための中から聞こえてくる鳴き声に耳を傾け助けました。

その女の子が起こした奇跡とは?
(スポンサードリンク)



出典:Youtube

【涙腺崩壊】過保護すぎる親たちが集まった授業参観。一人の小学生の発表が、全ての親をハッとさせ、意識を変えさせる事態に。

モンスターペアレントや、過保護すぎる
親が溢れている昨今。

そんな中とある都内私立小学校の授業参観での
出来事が、大きな波紋を呼んでいます。

例に違わず、過保護すぎる親がたくさん参加していた
授業参観。

教室の中ではある題材の作文の発表が行われていました。
(スポンサードリンク)




発表中にも関わらず、子供を褒めたり、また教室の
清潔さにケチをつけたりと、先生も思わず
苦笑いをする親たちの発言。

そうした時に、一人の小学生が手を挙げ次の発表をしたいと
立候補をしました。

 

その発表が、教室の空気と過保護な親たちの意識を
大きく変えることになったのです。

この授業参観の中で発表する作文の題材は
「家族への想い」でした。

 

家族に対しての気持ちを作文にし、発表するというもの。

手を挙げた小学生は堂々と作文を読み上げました。

 

『信じあうこと』

「私は、家族が大好きです。
家族も私のことが大好きです。

でも、たまにとても悲しい気持ちになることがあります。」

 

「私の家族は、いきすぎだと思うほど私のことを心配します。
この前、私は〇子ちゃんとケンカをしました。
私は、〇子ちゃんに嫌なことをさせられました。
でも私も〇子ちゃんに嫌なことをしたと思い、
仲直りをしたいと考えていました。」

 

「その時に、お母さんは私にあなたは悪くないと言いました。
〇子ちゃんがわるいんだから、あやまらなくていいのよ、と言いました。」

「とてもびっくりしました。
なんで私もわるいのに、私はあやまらなくて
いいのかなって、そのときに思いました。」

 

「お母さんは、もしかしたら私のことをしんじていないのかもしれない
と思いました。
お母さんは、『自分の子供』という事を信じているだけで、
『自分の子供だから』という理由だけで、私はわるくないと
いっているんじゃないかなと思いました。」

(スポンサードリンク)



「そのとき、とても悲しくなりました。
お母さんは、私という人間のことを信じてくれて
いるのかな?と心配になったのです。」

 

「私はお母さんの子供だけど、私という一人の人間でもあります。
その私という人間をちゃんとみてくれて、知ろうとしてくれて、
信じてくれているのかなって、思う時があります。」

 

「最近、テレビでモンスターペアレントという、子供のために
いっぱい怒る人が増えているという話をみました。

それを見てこの作文を書こうと思いました。
きっとそういう人が増えているのは、きっと子供自身を
信じるのではなく、『自分が育てた子供』という、育てたこと
自体を信じているんじゃないかなって思いました。
似ているようで、すごく違う事の様に感じるのは、
私だけではないのではないでしょうか。」

 

 

「私は、家族が大好きです。
だからこそ家族には、もっともっと、私のことを信じて
欲しいと思います。信じあうことができたら、きっともっと仲良く、
もっと笑顔いっぱいで一緒に居れるんじゃないかなって思います。」

 

「私も、もっとしっかりして、勉強もたくさん頑張ります。
だから、これからも私のことをたくさん信じて下さい。
私は、かならず家族みんなの自慢の娘になります。」

 

 

作文の発表中から、空気が静まり返る感覚がありました。
発表後、授業参観にきていた親たちは、誰も言葉を発する事が
ありませんでした。

でも少し間が出来てから、先生は大きな拍手をしました。
つられる様に親たちも大きな拍手をします。

発表をした女の子のお母さんは、授業参観後に自身の
振る舞いに対して、謝罪をしに行ったとの事です。

間違いなく女の子の発表が親たちの意識を変えた瞬間でした。

この話は、最近教師を退職した方が、一番印象に残っている話
として、寄稿してくれたお話です。

子供は大人が思っている以上に、敏感に大人の事を見てくれて
いるのかもしれません。

なんでも大人が正しいと思わず、今一度立ち止まり、
自分自身の立ち振る舞いを振り返ってほしい、
そんなメッセージが籠っているのかもしれませんね。
(スポンサードリンク)



【感動】一枚の薄赤い紙を落とした不自然な女の子。拾って渡そうと、手に取ったその”薄赤い紙”はただの紙ではなかったのです・・・

ある郊外の大通りに面しているガソリンスタンド。

ここで、一人のガソリンスタンドの男性店員。
彼は毎日このガソリンスタンドで働いていました。

田舎町のさらに郊外にあるこのガソリンスタンドでは、
普段から顔見知りの客ばかり。

滅多に新規のお客さんや観光客なんてこない
小さなガソリンスタンド。

いつもと変わらず、常連のお客さんの車を
洗車していた彼の元へ見知らぬ客が・・・
(スポンサードリンク)



ガソリンスタンド内へと入ってきた一台の車。

彼は、洗車していた手を拭って急いでその車の
元へ駆け寄り挨拶をします。

”いらっしゃいませ!
給油されますか?

彼が質問をすると、運転席に座っている少し
大柄な男性は首を横に振りながらボソッと話しました。


給油はいい。
トイレを貸してくれ。

そう言われたので、トイレを案内して洗車作業へ
戻ろうとすると、後部座席から一人の女の子が
降りてきました。

大柄な男性と手をつなぎトイレへ向かっていく二人を見て、
「仲のいい親子だな」
そう少しほほ笑んだそうです。

しかし、この後とんでもない事態へと
発展していくことに・・・

少し長めにトイレを使用して出てきた女の子の
手をサッと握ってまた車の方へ足早に歩いて行く
男性。

どこか違和感を感じていたのか、
店員は二人を目で追っていたのだとか。

すると、女の子が手に持っていた紙のようなものを
落としたのです。

落としたことに気づいていない様子の女の子に、
慌てて拾って渡そうとしましたが、

足早にスタンドから出て行ってしまった車。

しかし、その拾った紙に書かれている内容と
紙の正体を知った彼はすぐさま行動に
出ることとなったのです。

女の子が”ワザと”落した紙は、少し薄赤い
トイレットペーパーの紙だったのです。

しかし、トイレットペーパーは赤くはありません。

その薄赤い正体は”血”。

そして、その”白い”トイレットペーパーには
”血”でこう書かれていました。

”たすけてください”

これが、何を意味しているのか
すぐさま理解した店員男性は、恐ろしい事態に
気付きます。

あの大柄な男性に誘拐されたのか、いずれにしろ
事件性が高い事には変わりないと判断して
すぐさま警察へ電話。

そして、彼が凄かったのはここから。

車が走り去った方向と車の特徴を事細かく警察へ説明して、
地元の予想される逃走経路までを指示。

さらには、警察車両に先回りして封鎖するように
伝えたのです。

この彼の迅速かつ的確な指示の甲斐あって、
彼が警察へ電話してから約30分後に車は
発見され、女の子は無事保護されたそうです。

この後すぐに女の子の希望でガソリンスタンドへと
訪れたこの女の子は、スタンドの彼に
抱きついてこう伝えました。

”お兄ちゃんありがとう!
私ね、爪を噛んで血でメッセージ書いたんだよ!”

彼女は、2日前にこの大柄な男に誘拐され、
行方が分からなくなっていたそうです。

家族には身代金の要求もあったのだとか。

(スポンサードリンク)




痛い思いをしながらも、必死で助けを求めた
女の子の発想力と、すぐさま的確な指示を
送ったガソリンスタンド店員の機転の利いた
対応が見事に少女の命を救う事となりました。

米オレゴン州が舞台となったこの出来事に、
賞賛の声が集まったそうです。

この後、彼女の噛み切った指先には、
ガソリンスタンド店員の男性が巻いてあげた
絆創膏テープが貼られていたそうです。
(スポンサードリンク)



【感動する話】 エア・カナダ機で起きた空調トラブル。貨物室で苦しむ一匹の犬のため、機長の取った判断が世界中から絶賛される

イスラエルからカナダに向かっていたエア・カナダの旅客機が、貨物室に預けられていた犬を救うために行き先を変更。ドイツに緊急着陸する出来事があり、話題となっています。
(スポンサードリンク)




 

貨物室の暖房装置に問題が発生

エア・カナダ85便はイスラエルのテルアビブからカナダのトロントに向かう途中、貨物室の暖房装置に問題が発生。貨物室には、乗客のジャーマン・コントロビッチさんが預けた7歳のオスのフレンチブルドッグ犬「シンバ」(上記画像はイメージです)がいました。

暖房装置のトラブルを知った機長は犬の安全を気遣い、「この高度では極めて不快度が高く、そのまま飛行を続ければ生命が脅かされる恐れもある」と判断したといいます(エア・カナダ広報談)。

機長の判断により同機は行き先を急遽変更し、ドイツ・フランクフルトの空港に着陸しました。シンバは別の便に乗り換え、85便には約75分の遅れが生じたとのこと。

乗客の多くが好意的な反応

犬が危険にさらされる恐れがあり、行き先の変更によって安全が確保されたことを知らされた乗客らの多くが、「正しい判断だった」と語るなど概ね好意的な反応だったそうです。
(スポンサードリンク)



この件に対して寄せられていた声

 

出典:twitter.com

飼い主のコントロビッチさんは「この犬は自分の子どもみたいなもの」と話し、機長には感謝の意を示しているそうです。機長の判断もそうですし、遅延にも関わらず何よりも犬の無事に安堵した乗客たちの声といい、素晴らしいですね!本当に命が助かって良かったと思います。
(スポンサードリンク)



へその緒がついたままの子猫が息絶えていた。弔おうと抱き上げた、そのとき奇跡が起きました。

出典:imgur

雨が降るなか、散歩をしていた一人の女性。そこで彼女は衝撃的な光景を目にします。

冷たい地面の上で、へその緒がついたままの子猫がグッタリと倒れていたのです。

彼女は動かない子猫を見た瞬間、「もう死んでいるかも…」と覚悟します。
(スポンサードリンク)



出典:imgur

せめて埋めてあげよう、と子猫を抱き上げた、そのとき。彼女は、わずかに子猫の心臓が動いているのを感じます!!

出典:imgur

女性は手持ちの紙袋で子猫を包むと、すぐさま近くの病院へ走りました。

子猫は、彼女の手の温もりと、とっさに包んだ紙袋のおかげで体温が下がることなく一命を取り留めました。あとほんの数分発見が遅れていたら命はなかったそうです。

 

一命を取り留めた子猫は…

治療が終わると、女性には57ユーロ(約7500円)の支払いが待っていました。

実はこの女性、経済的にあまり余裕がない状態でした。しかし、子猫が命を吹き返した姿を見て、治療費のことなど気にもならなかったと話します。

そして彼女の決心。それは…子猫を家族の一員に迎え入れること!

 
(スポンサードリンク)



元気を取り戻した子猫
子猫は「Iris(アイリス)」と名付けられ、女性とその息子さんと一緒に暮らしています。

最初はミルクを飲ませるのも一苦労でしたが、徐々に元気を取り戻していくアイリスに家族は一安心。

出典:imgur

今ではゴクゴクとミルクを飲んで、すくすくと育っているようです。指を掴む手がたまらなく可愛いですね!

出典:imgur

もうすぐ目が開きそうなアイリス。

その愛らしさで、きっと家族の心を温かく灯してくれることでしょう。小さな優しさが大きな幸せに繋がった出会いに、幸せのおすそわけをもらえた気分です。

アイリス、元気に育ってね!

出典:imgur
(スポンサードリンク)



【泣ける実話】裁判官もこらえきれず涙‥息子が母親を殺した本当の理由

もう生きられへん。

此処で終わりやで・・・

京都市伏見区桂川河川敷で2006年2月1日に
無職片桐康晴被告が認知症の母親を殺害して
無理心中を図ったとみられる事件の
初公判が19日に行われた。

事件内容は認知症の母親の介護で
生活苦に陥り、母と相談の上で
殺害したというもの。
(スポンサードリンク)



片桐被告は母を殺害した後、
自分も自殺を図ったが
発見され一命を取り留めたとの事。

片桐被告は両親と3人暮らしだったが、
95年に父が死亡。

その頃から、母に認知症の症状が出始め、
一人で介護した。

母は05年4月ごろから昼夜が逆転。
徘徊で警察に保護されるなど症状が進行した。

片桐被告は休職してデイケアを利用したが
介護負担は軽減せず、9月に退職。

生活保護は、失業給付金などを理由に
認められなかった。

介護と両立する仕事は見つからず、
12月に失業保険の給付がストップ。

カードローンの借り出しも限度額に達し、
デイケア費やアパート代が払えなくなり、
06年1月31日に心中を決意した。

「最後の親孝行に」 片桐被告はこの日、
車椅子の母を連れて京都市内を観光し、
2月1日早朝、同市伏見区桂川河川敷の遊歩道で
「もう生きられへん。 此処で終わりやで。」

などと言うと、母は
「そうか、あかんか。
康晴、一緒やで」 と答えた。

片桐被告が 「すまんな」 と謝ると、
母は 「こっちに来い」 と呼び、
片桐被告が母の額にくっつけると、
母は 「康晴はわしの子や。 わしがやったる」 と言った。

この言葉を聞いて、片桐被告は殺害を決意。

母の首を絞めて殺し、
自分も包丁で首を切って自殺を図った。

冒頭陳述の間、片桐被告は背筋を
伸ばして上を向いていた。

肩を震わせ、 眼鏡を外して
右腕で涙をぬぐう場面もあった。

裁判では検察官が片桐被告が
献身的な介護の末に失職等を経て
追い詰められていく過程を供述。

殺害時の2人のやりとりや、
「母の命を奪ったが、もう一度
母の子に生まれたい」 という供述も紹介。

目を赤くした東尾裁判官が言葉を詰まらせ、
刑務官も涙をこらえるように
まばたきするなど、法廷は静まり返った。
(スポンサードリンク)



裁判の中で片桐被告は、
「私の手は母を殺める
ための手だったのか」 と言葉を残した。

東尾裁判官は片桐被告に対し、
「尊い命を奪ったと言う結果は
取り返しのつかない重大だが
経緯や被害者の心情を思うと、
社会で生活し 自力で更生する
なかで冥福を祈らせる事が相当
被告人を懲役2年6ヵ月に処する…」

そして続いてこう言った
「この裁判確定の日から3年間 その刑の執行を猶予する」
殺人(承諾殺人)で異例の執行猶予つきの
判決を言い渡たされた。

そして被害者(お母さん)の心情に対し
「被害者は被告人に感謝こそすれ、
決して恨みなど抱いておらず
今後は幸せな人生を歩んで いける事を
望んでいるであろう と推察される」

判決の後、片桐被告に裁判長が
「絶対に自分で自分をあやめる 事の
ないようにお母さんの ためにも、
幸せに生きて ほしい」 と言われ、
片桐被告は深々と頭を下げ
「ありがとうございました」 と言った。

片桐被告に言い渡した後に東尾裁判官は
こう言葉を残した 「本件で裁かれるのは
被告人 だけではなく、 介護保険や
生活保護行政の在り方も 問われている。

こうして事件に発展した 以上は、
どう対応すべき だったかを
行政の関係者は 考え直す余地がある。」

生活保護

生活保護(せいかつほご)とは、
日本の生活保護法によって規定されている、
国や自治体が経済的に困窮する国民に対して、
健康で文化的な最低限度の生活を保障するため
保護費を支給する制度。

生活保護法第一条にあるように、
日本国憲法第二十五条に規定する理念に基き、
国が生活に困窮するすべての国民に対し、
その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、
その最低限度の生活を保障するとともに、
その自立を助長することを目的とする制度である。

母子の悲しい旅

2006年1月31日、
この日までに払わなくてはならないアパートの
家賃3万円はどこにもなかった。

手持ちの現金はわずか7000円ほど。
康晴は親族に相談することもなく、
自分たちに残された道は「死ぬこと」しかないと思った。

康晴は自宅アパートをきれいに掃除をして、
親族と大家宛ての遺書と印鑑をテーブルに置いた。

その間、康晴は何度も母親に
「明日で終わりなんやで」と話しかけている。

最後の食事はコンビニで買ってきたパンとジュース。

電気のブレーカを落とすと、
康晴はリュックサックに死ぬためのロープ、
出刃包丁、折りたたみナイフを詰めて、
車いすの母と2人アパートを出た。

2人が向かったのは、三条の繁華街だった。
康晴がどこに行きたいかと尋ねて、
母親が「人の多い賑やかなところがいいなあ」
と答えたからだった。

1人300円の運賃を払って淀駅から
京阪電車に乗り、三条京阪駅に着いた。

駅を出ると鴨川が流れている。
2人はしばらくこの川のそばで時間をつぶしている。

やがてにぎやかな新京極通りをに向かった。

この通りの入口にそば屋がある。

康晴がまだ子どもの頃、親子3人で
食事をしたことのある店だった。

しかし手持ちの金が多くないため、
食事はしなかった。

夜、母子は伏見にいた。

もう戻ることのできないアパートの近く、
桂川の河川敷。

次にどこへ行きたいかと聞かれて、

母親が「家の近くがええな」と言ったからである。

午後10時のことだった。

冷たい雨

2月1日。厳しい冷え込み。

康晴は車椅子の母に防寒具をかけてやった。

それから何時間か過ぎた。

「もうお金もない。もう生きられへんのやで。
これで終わりやで」

康晴は泣きながら目を覚ましたばかりの
母に語りかけた。

母親は「すまんな」「ごめんよ」と
泣きじゃくる息子の頭を撫で、
「泣かなくていい」と言った。

「そうか、もうアカンか、康晴。
一緒やで。お前と一緒やで」 

「こっち来い。こっち来い」

母に呼ばれた康晴が近づいたところ、額がぶつかった。

「康晴はわしの子や。わしの子やで。
(お前が死ねないのなら)わしがやったる」

その母の言葉に康晴は
「自分がやらなければ・・・・」と思った。

そして意を決し、車いすのうしろに
まわってタオルで母親の首を絞めた。

絞め続けた後、苦しませたくないために
首をナイフで切った。

康晴は遺体に毛布をかけた後、
包丁と折りたたみナイフで自分の首、
腕、腹を切りつけ、近くにあった
クスノキの枝にロープをかけ首を吊ろうとしたが失敗した。

「土に帰りたい」と走り書きしたノートの
入ったリュックサックを抱いて、
冷たい雨の降るなか虚ろな表情で佇んでいた。

通行人によって2人が発見されるのは
午前8時ごろのことである。

引用:http://yabusaka.moo.jp/fushimi.htm
(スポンサードリンク)